ダウ90000を忘れない
いったいだれが、私たち2人の思い出を覚えているんだろうか。私たちが忘れてしまったら、2人で過ごした時間は、
このどうしようもない無常さに対し、ダウ90000は何度も抗おうとす
それはいっしょに観た映画の半券であったり、レンタルDVDであ
でも本当は、私たちが忘れてしまっても、"もの"がなかったとし
褒めてくれた言葉とか感覚とか、長谷川のだよ。長谷川のいいなー、と思ったところが、私にうつってるだけ。
(中略)
いつも褒めてくれるけど、私じゃないのになー、って思ってた。
2人の時間が、私の中にどうしようもなく編み込まれている。これは希望である一方、
ところが、である。そもそも私という存在は、だれかの言葉、
「個性」が絶対的によいものと叫ばれて久しい。街を歩けば「自分らしく生きよう」という広告にあふれ、「個性」探しの消費を促す*3。
『また点滅に戻るだけ』は、そんな終わりなき「個性」の葛藤に終止符を打ってくれる。
自分でセレクトしたんだろ? かっけぇセレクトショップ、ってことでいいじゃん。なんで自分じゃない、とか言うんだよ。じゃあ、いろんな人のいろんな言葉を使ってるところがいいんだよ*5。
あなただけのおもしろさは、すでにあなたの中にある。そして自分が無意識に選んでしまっている言葉や感覚には、あなたのおもしろさがつまっている。それはあなたが世界で唯一の人間であることの証明である。アツシ(蓮見翔)からミオ(中島百依子)への言葉には、「好きです」を伝える以上の深い肯定があった。
それだけではない。
誰かを好きなることは、その人の選んだ言葉や感覚の「元凶」も好きになることである。
トツカはスギハラのことが好きで、アツシはカイトのことが好きってことじゃん。
所沢のゲームセンターに集まった同級生の「紗々」みたいな関係が、こじれにこじれた末に、美しいラブストーリーへと変わる。だれかを好きになることは、そのだれかが好きな人やもの、ひいては世界を好きになることへとつながっていく*6。
私たちが忘れてしまったら、2人で過ごした時間はなかったことになるの?という問いに、もはや恐れる必要はない。それは、2人の中にしっかりと編み込まれている。その中から選んだ言葉や感覚が、私をつくり上げていく。私の「個性」はすでにあらわになっている。
27歳のゴールデンウィークに所沢のゲームセンターで過ごした思い出は、2人の手元にない。あるのは、2人が映っていないプリクラだけ。思い出をつくるはずのプリクラに映らないことで、だれの「手あか」もついていない思い出がつくられる。あまりに洗練されたラストシーンに、たとえ2人が忘れたとしても、私たち観客はいつまでも忘れることができないだろうと思う。
*1:坂元裕二が『花束みたいな恋をした』で「Googleマップ」に託し、大白小蟹が短編集で「ストーブ」に託したもの。またはダウ90000(蓮見翔)が「ラヴィット!」で麒麟の川島・アルコ&ピースとコラボしたコントにおける、「みんなが忘れても私は覚えています」という強い気持ち。
*2:私の中に無数のだれかが残っているという感覚。「もじせんせーのこと忘れても、もじせんせーから教わったことを忘れない子はいるんじゃないの。したら、その子の書く字にもじくんが残るじゃん」(田島列島『子供はわかってあげない 上』)
*3:「消費によってもたらされる「個性」が何なのかを不問にしたまま「個性化」を煽る消費社会の論理」(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)
*4:「1人1人にメンタルが不安定な理由があるのを”メンヘラ”で片付けちゃうと、ないがしろにされて、問題が大きくなるまでほっとかれちゃうんじゃないか、って。(中略)言葉を雑に使うと、小っちゃい問題を見過ごすから、危なかったりすると思うんですよね」(蓮見翔&紗倉まな AuDee CONNECT)
*5:前回公演でも「言葉」と「個性」の問題が扱われていたように思う。「誰が使っても同じ破壊力の言葉は使うなよ、つまんないから!いっぱい持った武器使うんじゃなくて、使ったら危ない武器判断できるやつがほんとに賢いやつなんじゃないの?」(ダウ90000『いちおう捨てるけどとっておく』)
*6:「ひとりの人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである」(エーリッヒ・フロム『愛するということ』)